この長い人生で、まっすぐな恋をしたことがあるだろうか。
私は、ない。
申し訳ないくらい、言い切れる。
その人が好きで、愛おしくて、私のものにしたいと思えるような恋、
そんな経験が一度でもあっただろうか。
32歳になるまであと少し。あと数日というところで、
瀬奈はまたこのことを考えていた。
仕事をして、家事をして、食事をして、生きていて、
ふとした時にやってくる、"過去"の脅迫。
手に入れられなかったものを突きつけてくる、
自分の記憶と脳味噌にうんざりする。
そりゃ何回か、人を好きになったり、お付き合いまで発展したことはある。
しかし、どの付き合いにも、何かと問題があった。
いや、私に問題があった。
そんな、別に思い出したくもない記憶の中で、
一番私のことをまっすぐに好きだと言ってくれたのは誰だろうか。
誰もいない部屋に帰り、誰もいないのにイヤホンをする。
そうやって耳を塞ぎながら、瀬奈は、阿部のことを思い出していた。
阿部とは大学生の時、バイト先で知り合った。
4年生で就活も終わり、あとは卒論というタイミング。
瀬奈は卒業旅行の資金にするつもりで、
時給の良い繁華街の居酒屋で少し働くことにした。
そこで阿部に出会った。今まで関わったことのないタイプの人だった。
違う大学でサッカーをやっていて、肌は黒くて、ちょっと濃い顔。
居酒屋バイトはベテラン。キッチンの人と軽やかに話したり、
人手が足りない時には、忙しいなかドリンク担当を明るくこなしていた。
「忙しいぜ〜!こんな高速でさばいてる俺、すごくね?!」
日々大学の課題を静かにこなし、穏やかに過ごしていた瀬奈にとって
異質、オラオラ系、陽キャ。絶対に交わることのない人物だと思った。
阿部には、瀬奈が入った時点で、同じバイトの年下の彼女がいた。
身長が低くて、いつも可愛いピアスをしていた。
まっすぐツヤツヤの髪が、居酒屋の少し汚れた
バンダナに隠れてしまうのが勿体無い。
小さくて女の子らしくてかわいい彼女じゃないか。
それなのに、いや、そういうこととは関係なく、
ナチュラルに、数日でズカズカと距離を詰めてくる阿部に、
瀬奈は少し恐怖を感じていた。
「瀬奈、今日何時上がり?」
「(いきなり呼び捨て?)ん、んーと、22時だと思います。」
「俺も!一緒に帰ろ!」
阿部は、不自然にカタコトの敬語で喋る瀬奈を見かねて、
聞いてもないのに、真っ先に同い年であることを教えてくれた。
「明日、先輩の家で髪染めようと思ってて、瀬奈も来てよ」
「(髪を染めるのに一緒に来てとは?)まあ、いいけど・・・」
「やったー!絶対だかんな!」
屈託のない笑顔とはこのことか。
陽キャに近寄られるどころか、避けられる人生だと思っていたから、
阿部の言葉、表情、身振り、手振り、
瀬奈にはそのすべてが研究観察対象のように思えた。