あの夜は、静かに終わった。
「ありがと」
「じゃあね」
それからというもの、阿部からの連絡は来なくなった。
瀬奈も、本格的に仕事に飲まれていって、
阿部を思い出すことすら
ほとんどなくなってしまった。
「阿部が、普通の人だったら良かったのに。」
この言葉が、時々瀬奈の頭をよぎる。
「普通の人」ってなんだよ。
そういう私は「普通の人」なのか?
あの映画館の日、阿部はどんな髪型だっただろう。
金髪はすっかり褪せて、赤っぽい髪だろうか。
もうそれすら、思い出せなくなっていた。
1年ほど経ったある日。
瀬奈に、大学のひとつ上の先輩から連絡が来た。
「社会人、どう?よかったらご飯でも行かない?」
先輩は、同じ学部で、音楽系のサークルに入っていた。
ピアノがとても上手な男性だった。
いつも爪が綺麗に整っていて、その指に触ってみたいと思っていた。
「いいですよ、もちろん!」
働いている場所を聞かれて、繁華街の事務所の住所を伝えた。
先輩は、薄汚い街の中でも、
少し落ち着いたカフェのようなお店を予約してくれた。
日曜日の昼だった。
先輩は大学の時と何も変わらず、優しい笑顔で待ち合わせ場所に立っていた。
茶色い髪に違和感があった。
髪の色が明るい大人に会うと、何かあったのかなと思ってしまう。
瀬奈と先輩は、喋りながらお店に向かって歩いた。
就職ではなく、「ピアノを演奏する仕事がしたいから、
今はアルバイトで生計を立てている」と先輩は言った。
アルバイト、そっか。阿部のことが久しぶりによぎった。
その時だった。
人混みの中、向かいから歩いてくるカップルらしき男女がいた。
とても見覚えがあった。
男性と目が合った。
それは、だいぶ髪の色が黒くなった阿部だった。
声をかけるでもなく、阿部と、そのまますれ違った。
阿部も特に何も気にかける様子はなかった。
少しホッとしたし、瀬奈は、これで本当に終わったと思った。
先輩とは社会人らしい当たり障りのない話をして、
夕方には別れた。
携帯に、阿部からメールが届いていた。
「もう男かよ、さすがだな。笑」
とても阿部らしいなと思った。
「先輩とは何もないよ」そんなこと説明するのも野暮だと思った。
瀬奈はそっと携帯を閉じた。
阿部との関係は、終わった。